たいち きわこ
太地 喜和子
本名名字の読みが「たいじ」
別名義志村 妙子(しむら たえこ)
生年月日 (1943-12-02) 1943年12月2日
没年月日 (1992-10-13) 1992年10月13日(48歳没)
出生地 東京都中野区
職業俳優
配偶者秋野太作(1974年)
主な作品
映画
『藪の中の黒猫』
『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』
『火まつり』テレビドラマ
『ナショナルキッド』
『国盗り物語』
『風と雲と虹と』
『白い巨塔』
受賞
キネマ旬報賞
助演女優賞
1976年『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』報知映画賞
第1回(1976年)助演女優賞
『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』芸術選奨新人賞(1981年)
「元禄港歌」「雁の寺」[1]第9回紀伊國屋演劇賞(1974年)
「越後つついし親不知」「藪原検校」[1]エランドール賞新人賞(1969年)[1]第1回日本シェークスピア賞
太地 喜和子(たいち きわこ、1943年12月2日 - 1992年10月13日)は、日本の俳優。別名義:志村 妙子(しむら たえこ)。東京都中野区出身[2][3][4]。本名は読みが(たいじ きわこ[5])。 父親は和歌山県新宮市の出身[6][4]。父は東京都の土木局に勤務していた[7]。太地は自身の出生について「自分はさる事情から、生後すぐ実母との別離を余儀なくされ、養父母の元に引き取られたと高校在学中に知った」と談話している。 新宿区立牛込仲之小学校、千代田女学園中学校卒[3]。松蔭高等学校在学中の1959年に、東映ニューフェイスの第6期に合格。同期には千葉真一・亀石征一郎・真山知子・茅島成美・新井茂子・都築克子らがいる。東映と専属契約し、当初は志村 妙子(しむら たえこ)という芸名で、同社作品に出演していた。1962年に高校卒業後、1963年に東映を離れ、劇団俳優座養成所に入る。同期に俳優座花の15期生がおり、1年留年したため、16期生として卒業[8]。『欲望という名の電車』の杉村春子の芝居に衝撃を受け、1967年文学座に入団した[9]。同年、日活映画の『花を喰う蟲』に主演。その演技を新藤兼人監督に認められ、1968年の『藪の中の黒猫』に抜擢されると、全裸もいとわぬ演技で一躍有名になった[3]。 舞台女優として、「杉村春子の後継者」として期待されていた。 私生活では、俳優座養成所時代からの同期だった秋野太作と1974年に結婚するも、短期間で離婚。その他三國連太郎、中村勘三郎、尾上菊五郎、志村けんとのロマンスが取り沙汰されたこともあったが、「私はサービス精神がある限り、見ている人にこの人は帰ったら所帯があると思わせてはいけない」というポリシーを持っており[10]、離婚後は生涯、独身を通した。また当時の女優としては池波志乃らと共に大変な酒豪で鳴らした。「本当に愛したひとは三國さんだけ」と公言し、映画『飢餓海峡』のロケを追い俳優座を辞め北海道に渡ったが、左幸子演ずる杉戸八重に嫉妬し、数ヶ月で俳優座に戻り女優一筋の道を選ぶ。その後文学座で加藤武に育てられる。その後、雑誌上で三國と最初で最後の対談をしているが、その場でも八重に対する猛烈な嫉妬心を語っている。 この頃から緑内障を患い、失明の恐怖にさいなまれるようになった。 1992年10月13日、静岡県伊東市での『唐人お吉』公演期間中の午前2時過ぎ、俳優三人が立ち寄ったスナックのママ[11]が運転する乗用車(トヨタ・スプリンターシエロ)が桟橋から海に転落する事故により死去。同乗者の外山誠二と大滝寛、および運転していたママは泳いで脱出したが、太地は泳げなかった上[12][13]、乗車前に深酒をしていたことから生還できなかった。駆けつけた佐藤陽子は「死に顔は眠っているようだった」と語っている。48歳没。墓所は豊島区勝林寺。 太地の事故死直後、プライベートでも親友だったカルーセル麻紀が自身の舞台上で感極まり「喜和子ぉ!!」と絶叫しながら号泣した場面がワイドショー等で放送された。
来歴・人物
志村けんの大ファンであり、その縁でTBS系『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』に出演したほか、フジテレビ系『志村けんのだいじょうぶだぁ』ではコントにも挑戦。柄本明と共に常連ゲストとなり、亡くなった際には急遽番組で追悼企画が組まれ、1992年10月19日に放送された。
1970年代半ばには、大河ドラマ『風と雲と虹と』で共演した俳優の露口茂の名前を理想の男性として挙げていた[14]。
出演作品
テレビドラマ
新・七色仮面(1960年、NET)
ナショナルキッド(1960年、NET) - 小畑尚子
ヘッドライト(NTV / 東映)
第1話「湖畔の疑惑」(1962年)
第13話「母と子」(1962年)
バラの花は真赤(1966年、NHK)